明治以降の医療史

時代は変遷して行くことになるも、問題は山積み

江戸時代も終焉し、日本は新たな時代への船出を始めることになります。文化の変容と進化、日本独自に取り入れられていく新しい日本が生まれていくことになるが、医療に関しては多くの問題を抱えたまま明治維新が巻き起こり、年号も明治へと変化してしまいます。どういう問題があるのかは、先に考察したように医師の資格がないために町医者として語る人数が尋常ではないこと、また薬として配布されているものの中には人体に多大な副作用を引き起こしかねない危険なものまで堂々と出回っていた。こうした問題を新体制である政府が見逃すはずもなく、改革が求められることになるのはいうまでもない。

そうした中で早急に執り行われるようになった医療分野についての改革として、最初に取り組まれたのは『医療と医薬の分業』を始めていくのです。それまでの日本では医療に携わるもの、古代で言うところの僧侶達が診察をして薬も処方する一元的な体制が執り行われていました。医師が薬を処方することが当然のこととして行なわれていたため、江戸の町に堕胎薬が流通するようになってしまっていたのです。今の時代の体制で考えると恐ろしいことですね、そうした中で新政府も医薬品の取締りを開始していった。しかし明治政府がまだ樹立されたばかりということもあり、最初からそう上手く取り締まりを強化することが出来るようになるなど簡単な話ではなかった。日本国内だけではなく、さらに諸外国との戦争によって戦いの火蓋が幕を切って降ろされるなど、混沌とした状況だった。

その中で巻き起こった戊辰戦争については負傷者の手当てに外科医を必要としていた中で、イギリス人医師が日本官軍の治療を行うサポートがあった。その中でその医師らが治療に洋薬を用いたことによって国外から医薬品の輸入も始まっていく。これがいまだ統制の取れていなかった日本医療の業界をさらにかき乱すことになってしまう。

不良医薬品の登場によって、更に混乱していく

漢方中心だった東洋医学を中心とした日本医療において、化学合成薬を中心とした西洋医学の薬は効果としては覿面だった。ところがその分副作用を引き起こすことになってしまう。当然輸入してきた洋薬の見分け方など、日本人に区別することはできない。そのため、どの薬が人体に影響の少ないものなのかという問題も噴出するようになっていく。国内においても闇医者と違法ドラッグの取締りにあくせくしている中で、さらに輸入医薬品の登場したことで統制など取れるはずもなく、更なる対策が求められるようになる。

こうした中で政府は明治31年において『売薬取締規則』という法律を制定して、本格的な薬事行政を行っていこうと乗り出していった。しかし、それで全てが解決できるほどこの頃の日本人も、そこまで効率の良いやり方を行うことはできませんでした。そもそも輸入医薬品に対して、人体に影響がないかどうかを確認する検査体制を執っていなかった事もあって、体裁だけの活動をしているだけの骨抜き状態に他ならなかった。今の日本の政治と変わらない体制なので、やっぱり当時から日本を引っ掻き回していたんだなぁとしみじみ思ってしまう。

日本医療の改革を推進するも、国内医療の状況を統制する以前に輸入された贋薬に対しての検査もしないで流通するようになってしまったこともあり、やはりその後も医師の仕事としては診療と医薬品の処方という2つの仕事をするのが伝統的なものとして見られるようになった。

分業までの道のりとして

現代の日本で見られる、診療されて薬剤師に薬を処方してもらうというのが通常運転だと思っていた時期もあったと思います。勉強して行く中で江戸の世では医師がその診療と投薬の両方を行うことが常だったと知ると、正直恐ろしいと感じる人も要るだろう。もしも信頼できるような人でなければ、診療はともかくとして処方された薬を飲むにしても、投薬するにしても躊躇いが出てくるだろう。最悪の事態を引き起こしかねない事態と、世情で罷り通っていた医療は誰にでもできるものだという常識を打ち破るために、明治政府が尽力していく。

ではいつ頃から当時で言うところの医療と医薬品分業が体制になるまで、決して楽な道のりではなかった。そもそも日本に分業という考え方が広まるようになったのは、明治初年に西洋医学と共に伝え聞くようになるのです。日本でも京都にて医療と医薬品分業を果敢に取り入れていこうとするため、今で言う所の薬局が建設されるようになりますが、世情の流れに背いていたこともあって、数年で廃止が決定してしまう。取り組みとしては間違ってはいないものの、あまりにもそれまでにの医療とは異なる考え方だったこともあり、日本で医療行為に従事していた人々は混乱と憤慨、そして糾弾などの行動を起こしただろう。特に正式な医師ではないやぶ医者などは折角これほど稼ぎの良い仕事をみすみす手放すことなど出来るわけないと、そう思ったに違いないだろう。

そうした抵抗勢力の動きもありましたが、薬局成立を実現するために政府は積極的に取り組んでいくこととなり、結果から最初に述べると明治7年に分業体制の礎をようやく形成することに成功したのです。そうした中で立ちふさがった問題はいくつもありましたが、中でも分業する中でそれまでの医療において考えられていなかった、『診察料』というものを導入しなければ医師として活動する資金を得ることが出来ないなどの、別の問題を引き起こすことになってしまいます。この問題に対して政府も診察料という概念については把握して制定することになるが、それでもいまだ体制は緩いままだった。

そうした政府がようやく気付くきっかけになったのが、漢方医として活動している医師の投薬弊害を調査しているときのことだった。調査を進めていく中で長崎の医学校から警告を受けたことによって、今日本の医療がどのような現実にさらされているのかという事実と直面したというのです。

これにより、それまで来るもの拒まずの状態だった輸入医薬品に急ぎ、検査体制を整備すると共に『医制』という体制を形成する動きが進展していったのです。これが意味するところは、やはり政府は現状をまるで理解していなかったことが露見したことを意味している。結局現場の事は現場任せだというのはこの頃からだったようだ、日本だけではないがこうした悪しき体制は昔から続いていたことだけは間違いないようだ。

日本の医療史の始まりは・・・。